ペンション紫香楽物語

 

ペンション紫香楽物語



笹が岳
笹ヶ嶽


炎の美通りの桜

ペンション紫香楽









愛宕山

 

 当館は、初代直村春松が大正年間に開業していた一杯屋旅館を継承し、その後旅館楽と改名して経営していた娘の小はると家族が、現在地に新館を建設して、1982年11月に開業いたしました。

 直村家は、長年信楽町神山にある笹ヶ嶽の山中で、文七屋敷といわれる場所に暮らし、先祖代々文七を名乗っていました。 いつごろからは存じませんが、直村という名前が、古い朽木家の文書に残されているようで、親族の中では朽木との交流が残っていました。

 幕末の安政伊賀地震によって屋敷が崩壊し、麓の村に落ち着いたときには、文七と童女の二人のみでした。 当時、村の祭礼で相撲を奉納していた、甲南町杉谷の西村家出身の三石関という人物が、妻子を伴い、童女の養父母として請われ文七を引き継ぎました。 神山南新田の高倉神社の手水鉢には、三石関の名前が記されています。

 信楽焼の歴史で必ず取り上げられる古窯遺跡、五位の木窯の五位の由来は、その笹が嶽で往古祭祀されていた神様に与えられた位に由来します。

 大正11年3月28日に発行された、三重県神職会編纂の三重県神社誌2巻によると、「元笹ヶ嶽山中にあった佐々神社の佐々木明神に対して、文徳天皇嘉祥3年6月庚戌佐々神に従五位下、清和天皇貞観15年9月己丑従五位上を叙さる」と記されています。 直村家では、毎年正月には笹ヶ嶽に登り、祝杯の「かわらけ」を投げる風習が残っていました。 その「かわらけ」等の神器は、古来より五位の木窯で焼かれていたと思われます。

 その古窯遺跡との関連で取り上げられるオスエノヒラとは、白石神社の元の所在地であるが、白石神社に付いても、「口碑に昔神武天皇御東征の時八咫烏本社の舊鎮座地なる白石山の御辷ヶ平に止まりきりという伝説ありを神跡と称す、其御辷ヶ平は即ち中央に屹立したる所謂神石にして周囲一円の巌石の白巌に変せしも神の霊験によるとなり故に此山の白石の小片にても拾帰れば直ちに神罰を蒙りて腹痛を起こすと云ふされば里人此山に絶えて入るものなし」とあり、由来の深遠さを恐れた民が、いつのまにかオスエノヒラと伝えたようです。

 直村文七家で唯一生き残り、成人した童女の次男が春松です。 春松は伊賀で石職人となり、明治時代に北海道の旭川で仕事をして、資金を貯めて帰郷しました。 帰郷後、近隣の積石工事を行い、その痕跡が多数残されています。 河川の護岸工事のほか水力発電所の斜面、鉄道の側壁などが目にとまります。

 その後新町の信楽川沿いに友人とともに劇場を開設し、芸能の人々を宿泊させるために旅館も開業しました。 昭和2年に一人娘の誕生を機に劇場経営から退任し、北出町に数名の職人とともに移り、新しく旅館を開業しました。 42歳のときに脳梗塞で倒れた後も右手を駆使し、石積み工事をする傍らで、農業と当時では珍しかった養豚も始めていました。


 戦後、娘の小はるは、戦時中に信楽に来ていた海軍兵と結婚し旅館を引き継ぎました。 粘土加工の再開のために、工業組合員の従弟に頼まれた元海軍兵は、神戸のダンロップにいた叔父を頼って入手した、統制品のコンベアーのベルトを信楽に持ち帰り、ようやく信楽の陶器生産が再開されました。

 多数の帰国者のお世話の後、再開した旅館の最初のお客様は、大相撲の人々で、宿泊された関脇の時津山関が優勝されました。 外国人で最初に宿泊されたのは、バーナードリーチ氏の4番目の弟子というジョンチャペルという陶芸家でした。 彼は日本での活動後、帰国されたオーストラリアで、交通事故で亡くなられました。

 戦前、勅旨の美しい桜並木と川を背景とした映画の撮影が行われていましたが、米軍の進駐で切断され、戦後の映画撮影は、高峰秀子さん主演の「山河あり」で始まりました。 当館では、桂小金治さんなどが宿泊されました。

 戦後の動乱の後、町から仕事を失くした女性が多数来られるようになり、一時小はるは、旅館の傍らに「バーコハル」を併設し仕事を提供しました。


 戦後の様々な行商の人々から、工場建設、水害工事、送電線工事、ゴルフ場工事などの工事関係者のご宿泊を経て、1970年代、ゴルフと観光、家族旅行の時代に応じるために、今ある信楽川沿いのペンションを新設致しました。

 開業後まもなく宿泊されたのが、「陶工の谷、信楽」を発表されたルイーズコート氏でした。 信楽の古代からの歴史を始めて一冊の本にまとめられた方です。 陶芸の専門家ですので、信楽の古代史に関しては多少調査が不十分なのは否めませんが、京の都と信楽の間の長い歴史が、茶の湯の発展とともに詳しく調査されていて多くの人に読んで頂きたい本です。 ただ信楽の語源を「繁る木」と理解されているのは少々残念です。

 当館の紫香楽は、聖武天皇が創建された紫香楽宮から頂いたものですが、それは新名神高速道路建設工事に伴う広い遺跡地域の破壊を危惧して名前を残すために旅館の名前を変更したものでした。

 シガラキと称される地域は、本来、富士山の裾野が山梨と静岡の両方に広がるように、三重県と滋賀県の県境に存在する笹ヶ嶽を取り巻く、伊賀と甲賀にわたる地域です。

 「繁る木」説は、大正時代に編纂された甲賀郡史に記載され、その記事を引用した書物によって拡散されました。 シガラキの表記は様々あり、信楽は聖武天皇が命名した紫香楽の記述に対して、本来の地名を暗示する言葉かもしれません。 仏教用語のシンギョウに由来するとされシガラキと読む信楽は、本来音読みではシンラクとも、シラともなります。 寧楽はナラで、相楽はサガラです。 他に紫香羅城、神楽や白神楽の表記もありました。

 百済滅亡後に多数渡来された人々が参戦したという壬申の乱の前には、新羅からの渡来人も多数いました。 後に大津三井寺に新羅善神堂が建立され、新羅の鉄の神、兵主神社のある野洲の近くには、銅鐸が多数出土し、近年では大規模な鉄の鋳造遺跡が発見され、近江には新羅の痕跡が多数残っています。 シガラキが本来はシラキつまり新羅城ならば、黄瀬つまりキノセは「城の背」となり、コート氏も引用された「木の瀬」ではありません。 キノセは城域の北方の境界の守りと思われ、聖武天皇が参拝されたと伝わる大きな磐座のある古い天王神社の存在と、近くの大きな井戸や窯遺跡も古代の祭祀に関係しているのかもしれません。

 壬申の乱で仏教徒の天武天皇が政権奪取の直後に発布されたのは、近江若狭の民の牛の屠殺を伴う祭りの習慣の禁止でした。 最近まで信州の諏訪神社の祭礼では鹿の頭が神前に捧げられていました。 唐から帰国した吉備真備は、牛頭天王という神格を吉備の廣峯に祭祀し、各地に広めました。 伊賀の玉滝神社もその一つです。 現在祭神として健速須佐之男命となっている、元豊田神社で、現在は玉滝神社の由緒が、前述の書に「豊田天王延喜三年播州より勧請廣峰の禰宜道勝つ祭之、吉備大臣遣唐使歳朝の時於播州廣峯神社を拝し此事上奏して社を造るより所々に勧請」とありました。

 牛頭天王と同格のスサノオ神はとりわけ関西地方で多数祭られている祭神でした。 さらに同神とされる内保村之通山神社、通山大明神についても興味深い伝承があります。 宇都可里内保記に通山大明神来由記として、通山大明神は天忍日命の神霊で、聖徳太子に四天王の像を信貴山に修めさせ、自らの垂迹である魔利支天像の加護によって勝利をもたらした神で日本無双勝軍神とあります。 甲賀のいくつかの地名の由来がその時の太子の事跡を示すとも書かれています。 物部守屋を討ち果たした後、聖徳太子は、近江48箇所に観音寺院を建立していました。 笹ヶ嶽には聖徳太子が寺を建立とされたという伝承もありました。 聖武天皇の要請で信楽に来た行基菩薩が、自ら彫像した勝軍地蔵菩薩もまた軍神でした。 その後菩薩像は多羅尾家から徳川家康に贈られ、関が原での勝利をもたらし、長らく江戸の愛宕山で祭祀されていました。

 さらに内保村通山明神祠について「按金山彦命を祈る正八幡神明山主熊野夷の神の末社あり」と記し、「本朝生贄之神社、熊野春日諏訪是也」とともに、生贄を求め暴れる大蛇の伝説を記しています。 笹ヶ嶽にも五八寸といわれる山主がいると祖父から聞かされていました。 私と母も一度谷に迷い込んだときに草をなぎ倒して進んだ獣の這った後の生臭い匂いで思わず逃げ帰ったことがありました。 スサノオ神が祭祀された地域には、同じような大蛇と共に暮らした先住民族の伝承があるのかもしれません。

 玉滝神社の近くには玉滝寺があり、元は橘諸兄の別邸でした。 謡曲の草子洗小町では、橘諸兄が万葉集7千首を選んだとされています。 そして紫香楽宮遺跡からは、万葉集の代表的な和歌が表裏に記された木簡が発見されていました。 (発見された栄原永遠男氏の著作があります)

 興味深いのは橘諸兄も天智天皇もともに葛城王と呼ばれていたことです。 なかなか天皇の位に就かなかった葛城王は、本来の天皇の継承者ではない、王族であることを自負していたのでしょうか。 橘諸兄も臣下に下って橘姓を名乗りましたが、紫香楽はしばらく橘諸兄の領地でありました。 であるならば万葉集発祥の地といえるかもしれません。

 さらにもしも実際には一万首集められていたとしたら、公文書の偽造や焼却はいかなる時代にも起こることで、平安時代にはすでになかった3千首あまりの歌は、何を伝えていたのでしょうか。 残された歌のなかには、柿本人麻呂を筆頭に、当時の人々の気持ちが推し量れるような巧妙な歌が見出されます。

 「陶工の谷」の物語で、もうひとつ残念なことがあります。 それは平安貴族が信楽を詠んだ和歌で頻繁に使用されている「外山」―トヤマという言葉が英語訳では、「遠い山」とされ、大きな誤解をもたらしていました。 「外山」とは、人里に近い大きな山のことです。 「繁る木」に関連させて、和歌の内容が全く別のものに解釈されているのが残念です。 同時に和歌や謡曲に見える信楽笠が菅傘と紹介されているのも残念でした。 正解は竹編笠です。 蓑や笠は古代の重要な工芸品で、材料となる葦と水辺は古代のロマンに溢れています。

 「外山」が「遠い山」と翻訳されることによって、一番大事な愛宕山が単なる京都の愛宕山から招来したと誤解されているのは心外です。 京都の愛宕山は、役行者の行場ではありましたが、名前の指定は平安京の北部の山から遷されていました。愛宕がいかなる意味かは判りませんが、テレビの向こうで長谷寺のお坊様たちが早朝に、愛宕大権現!と叫んでおられましたから霊験あらたかなのでしょう。 「信楽の外山」は、まさにその愛宕山を指していたと思われ、寛永2年に徳川幕府によって創建されていた旧社殿は、幕末の安政伊賀地震で倒壊していました。

 そして明治から昭和を通して愛宕山から採掘された陶土は、最高級の陶土として信楽と京都の陶器に姿を変えました。 大正時代に大阪の問屋を中心に建築された愛宕山の石段と、夏の火祭りにその信仰の名残を見せています。 地震の後、幕末に瀬戸から信楽に移住した陶工たちによって、その神格に陶器神社の名前が重ねられました。 陶土が採掘された後地には、学校と窯業試験場そして住宅が建っています。 現在愛宕山とされる山は、本来坊山と称し、愛宕大権現に奉仕する僧侶が住んでいた山でした。


 ともあれペンション紫香楽はその愛宕山の名残とその背後の笹ヶ嶽を毎朝毎夕拝し、信楽川の涼風に吹かれてのんびりではないにしても38年目を迎えています。

 開業後まもなく横尾忠則氏が一年の半分を信楽で過ごされ、アメリカのラウシエンバーグさんたちとの楽しい思い出は、出版された氏の「画家の日記」に記録されています。 氏を始め大塚近江陶業に来られていた多くの芸術家諸先生からも貴重な思い出を頂きました。 先年ミホ美術館を退官された辻惟雄氏は横尾氏のご友人でしたが、滞在記録で一番長いご宿泊となりました。 大塚近江陶業の奥田実氏も、陶板を寄贈してくださった村松秀太郎氏も近年亡くなられて寂しい限りです。 町内の心優しい陶芸家との語り合いも楽しい思い出ですが、残念ながら今はおられません。 古谷道生氏、上田直方氏、そして昨年は井伊昊嗣氏でした。

 コロナの流行で、外出を控えておられる皆様に、ご挨拶の変わりに思い出のお話をお届けいたしました。 江戸時代に東海道の信楽茶屋でお茶と共に提供され、戦後も市中で「しがらき」と叫びながら売り歩かれたという蕨餅は、アイヌの調理方法で作られた信楽発祥の甘味でした。 蕨餅を召し上がられるときに、信楽の白い砂と、白い霜、春のミツバツツジを想っていただければありがたいことです。 古代から現代まで、多くのヒーローたちが訪れた信楽です。 近くにお越しの節には、お立ち寄り、お泊りいただければ幸いです。

2020年6月30日      夏越祓に寄せて